♪しっあわせならてをたたこ〜♪
パンパンッ!!
— りょう (@ogataryo) 2014, 9月 15
↑幸せですか?
こんばんは、りょうです。
幸せって何なんだろう?敬老の日なのでQOLについて考えてみた。 - 日なたと木陰
こちらの記事を読みまして。
私が幸せだと思う時、私は幸せなんだ
特にこの部分は、私自身も常日頃から思っていたことなので、大変共感いたしました。
というか、当たり前過ぎて、敢えて文章にする必要もない?
幸せとは、常に主観的な問題である
自分にとって何が幸せかって、それを決めるのは常に自分しかいないんですよね。
客観的にみて「あの人は幸せだ」って思われていたとしても、本人が幸せだと感じていなければ、それはやはり幸せではないと思うんです。
逆に、客観的にみて「あの人は不幸せだ」って思われていたとしても、本人が幸せだと感じているのなら、それは幸せなのです。
家族がいるとか、お金があるとか、好きなことを仕事にしてるとか、そんなことはどうでもいい
本当にどうでもいいんです。
本人が、幸せだと思っているのなら。
「家族がいるということ=幸せ」とは限りません。
もしかしたら家族が足かせになってる場合もあるでしょうし、壮絶な遺産相続問題に悩まされるかもしれません。
「お金がある=幸せ」とは限りません。
もしかしたら、お金を得るために身を粉にして働いているのかもしれませんし、そのお金が目当てで人に騙されるかもしれません。
「好きなことを仕事にしている=幸せ」とは限りません。
もしかしたら、好きなことを仕事にしてしまったがために、壁にぶつかり嫌いになることもあるかもしれませんし、産みの苦しみで死にたくなるかもしれません。
結局、何が幸せかなんて、誰にもわからないんです。
だからこそ、自分の幸せは自分で決める
別にいいんです。
チビでもデブでもひんぬーでも。
ヒマでも忙しくても、未婚でも既婚でも。
同じような毎日でも、激動の日々でも、必要なのは、些細なことでも幸せを感じられる感性なんだと思います。
幸せのハードルを下げておく
幸せって、絶対値じゃなくて、相対値なんですよね。
例えば、毎朝オレンジジュースを飲んでいるのに、たまたまその日に切らしてて、水になったとします。
あーあ、ガッカリってなりますよね?
逆に、毎朝お水を飲んでて、たまたまその日はいただき物のオレンジジュースがあったとします。
やった、ラッキー!ってなりますよね。
(オレンジジュースより水のが好き、とかいうツッコミはなしの方向で)
当たり前になっちゃうと、そこから幸せを感じるのはなかなか難しい。
だからといって、あんまり日々の生活レベルを下げるのは考え物ですが、上げ過ぎちゃうと、幸せを感じにくくなってしまうことはあるかな、と思います。
我が家でも、一年くらい前からホームベーカリーでパンを焼いていますが、当初はあんなに美味しく感じていたのに、今ではすっかり当たり前になってしまいました。
贅沢だなぁ(笑)
何事も、ほどほどがいいよね。
なーんて、こんなこと言ってても、バタバタしてると忘れちゃうけどね
毎日同じことの繰り返しで、バタバタと忙しく過ごしてると、毎日幸せを感じてるヒマなんてなかったりしますよね。
あー、今日も忙しかった。やれやれ。
それに、毎日毎日、いいことばかりおこるわけじゃないし。
うまく行かない日も、なんだかアンラッキーな日も、たくさんあります。
時には、些細な幸せなんて忘れて、やさぐれてしまうことだって。
でも、それでいいんだと思います。
ただ、ふと立ち止まった時に、
あぁ、幸せだなぁ
って思えるカケラを、日々の生活から少しでも見つけておきたいなぁ、と思います。
とりあえず、なんでも引き出しに閉まっておいて、たまに開いてグフグフ笑っちゃうような。
きっと、たくさん落ちてると思うんだよな。
少しでも多くのカケラを拾えるように、また改めて意識しながら日々を過ごそう。
今日は、そんなことを思ったので、文章にして残してみました。
幸せのカケラがたくさん見つかりますように。
それでは。
呼んだら反応してくれる仲間がいるって、幸せだよね(*´∀`*)
— りょう (@ogataryo) 2014, 9月 15
↑仲間がいるのは、私にとっては大きな幸せ。